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原爆投下のB29機長死去

 太平洋戦争の歴史がまた一つ消えていく。終戦後、既に60年を過ぎていることを実感することが多くなっています。

 11月1日、広島に史上初めて原爆を投下した米軍B29爆撃機の機長が死去、と各メディアが報道しています。
 (Googleの検索で約2000件でます。)


詳細
 AP通信によると、11月1日、太平洋戦争の1945年8月6日、広島に史上初めて原爆を投下した米陸軍航空隊B29爆撃機「エノラゲイ」の機長と知られるポール・ティベッツ退役准将(当時大佐)が同日、アメリカオハイオ州コロンバスの自宅で病気のため死去したと伝えた。92歳だった。同氏のスポークマンが語った。

 アメリカイリノイ州クインシー生れ。陸軍士官学校などを経て、1937年ケンタッキー州の陸軍航空隊入り。1943年にB29爆撃機の試験飛行に参加する。44年秋、原爆投下の実行部隊である第509混成飛行団の指揮官に抜てきされた。原爆投下部隊の発進基地となったテニアン島で、原爆開発のための「マンハッタン計画」に関与し、爆撃機の整備や部隊の訓練などを担当した。広島への出撃前日の8月5日、自身の母親の名にちなみ、「リトル・ボーイ」の暗号名を持つウラン濃縮型原爆を搭載したB29を「エノラ・ゲイ」と名付けた。
 
 そして、エノラ・ゲイの機長として太平洋のテニアン島を離陸、1945年8月6日、広島に世界史上最初の原爆を投下した。一瞬にして約14万人の命が奪われた




 同氏は生前、「原爆投下は戦争を終結させるためだった」とか「原爆は大きな戦争を抑止してきた」とメディアの取材に語っていた。原爆投下の正当性を疑っておらず「後悔はとんでもない」と死去するまでこの考えをかえなかった。

 B29爆撃機の搭乗員の中には、戦後、原爆投下を後悔し、それの悲惨さを訴えた人も確かいたと思いますが、この機長はいかにも勝者のアメリカらしい都合の良い考え方だなと感じますが、実際にこの原爆の被害に遭われた方たちにすれば、この悲惨さや苦痛はそんな理由で正当化されるものではないと言われると思います。

 メディアもそこのところをもっと深く掘り下げて報道するという事は無いのでしょうか? 終戦後60余年経ても、今でも原爆症はなくなっておりません。それほど強力な影響を与える兵器だということをもっと伝えてください。ただ単に、死亡記事を報道するだけではなく、関連した記事を報道して欲しいです。原爆被害の日だけ報道するだけで、それ以外はほとんど報道しないという日本のマスコミは、(芸能情報などのワイドショー的な内容のものは毎日でも報道するのに・・・)反省するべきだと思います。



原爆関連情報

原爆の子
出演: 乙羽信子, 滝沢修, 清水将夫, 宇野重吉, 多々良純
監督: 新藤兼人
時間: 85 分
内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
原爆の洗礼を受けた子供たちが綴った、胸をうつ作文を基に脚色。英国アカデミー国連賞も受賞した。近代映画協会の第1回自主映画作品。出演は、新藤監督映画に数多く出演している乙羽信子(『三文役者』『釣りバカ日誌5』)。

実録第二次世界大戦史 第五巻 戦争裁判と原爆の悲劇/アメリカの敵、日本

あなたはどう思いましたか?

あなたは、どう感じますか?
戦犯という言葉を・・・・。


意外に近いところから、戦犯という言葉が聞かれたという感じです。私の住んでいる町から近い町で聞かれた言葉。戦争の被害・影響は幅広く、また庶民の中にも広がっていたということでしょうか。

戦犯というと、軍の上級将校が中心というイメージがありますが、(首相の参拝でも最近の話題にもなりました、靖国神社に合祀されている東条英機などが知られていますが)下級将校にも戦犯容疑が多く掛けられました。実際に捕虜虐待や住民を殺害した将校・兵らは有罪となった人もいます。
今回の方のように、軍の命令でした事が容疑となった事も多かったようです。当然ながら、冤罪で有罪となり、処刑された方もあるようです

しかし、そういった戦犯容疑のことなどを文章として残すことに、当事者の方々はなかなか抵抗があったと思います。

それを冊子にして、若い人に読んでもらっている方がいるのです。勇気のいる事だと思います。ご本人は戦争の語り部として当然との思いでなさっているようです。こういう方が記録を残してくれることが、次世代の人にとっては、とても貴重なものとなるでしょう。

戦争とは? 何のためにするのか? 戦争は勝てば良いのか? などなど多くの疑問符があります。それを全て回答できる人はいないと思います。しかし、一つでも答えが得られるように、戦争体験を残すことだと思います。

こういった記録が全国津図浦々にあると思いますね。それをまとめたら、
どんなにか悲惨な戦争・軍隊の記録集が出来ることでしょうか。


ここから新聞記事

若者に語る戦争の記憶

 戦犯容疑死見つめた日々

 85歳 藤枝の酒井さん

 平和への思い冊子に
 「死を見つめる境遇は次世代に経験させたくない」−。戦後、C級戦犯として収容され、死も覚悟した酒井清次さん(85)=藤枝市上薮田。3年前から戦争体験を小冊子にまとめては、若い世代に配っている。15日で終戦から62年。若者は酒井さんの体験に衝撃を受ける。
「憲法9条の改正論議に無関心な若者が多い。われわれの生活と直結しているのに」と憂える。
 表題「運命」と「戦場であった同級生」では、戦争に翻弄される人生、親しい人の死による恐怖心を取り上げた。「私の命は風前のともしび」「人の生死は運任せ」−。
 終戦はシンガポールで知った。「輸送中隊長代理・陸軍少尉」として、物資を前線部隊に輸送していた。「日本は負ける。玉砕せよ」。上官の命令が下った直後に終戦。命は永らえたが、帰国はすぐに実現しなかった。
 「ビスケットの話」では、「捕虜虐待」の容疑で連合国軍に身柄を拘束され、シンガポールのチャンギ刑務所に3ヶ月間収容された事を明かした。うわさでは絞首刑。「どうしておれが」と”日本の聖戦”を恨んだ。1日2回の食事に供されたビスケット3枚に、わずかに癒された。
 各冊子は50部前後作成し、治療に通う病院の患者らに渡している。長女の孝子さん(58)は「戦争を知らない世代も読みやすいようにと、難解な表現を少なくしている」と父の思いを話す。
 デイサービス職員の翔木大輔さん(28)=藤枝市藤岡=は冊子だけでなく、体験談をじかに聞いた。酒井さんが戦犯として刑務所にいたことに衝撃を受けた。
 「これまでは戦犯と聞いてもピンとこなかった」。戦争の話題に友人の関心は低い。「体験者の話は重い」と戦争を伝える重要性を実感した。
 近年、病気がちの酒井さんだが、戦争の語り部は続ける。「天国に戦争はないだろう。いつか戦友に会ったら、21世紀の素晴らしさを伝えたい」と思っている。

ここまで新聞記事

静岡新聞 平成19年8月15日 朝刊社会面掲載


今回の投稿は、実は2日前にメモ帳に記録していたものです
そして、本日投稿するつもりでいたのですが、きしくも本日8月24日、日本テレビ系列にて、BC級戦犯の方のドラマが放映されました。迂闊にも私は、これを知りませんでした。戦争情報のブログとして情けない話ですね。

2時間半の終戦記念特別ドラマと銘打ったものです。
私はとうとう最後まで見てしまいました。途中何度か涙しながら見ていました。「私は貝になりたい」という有名なフレーズで知られる戦犯容疑の方の手記を基に作られたものだそうです。

戦争とは、必ず勝ち負けがある戦いですその判断そのものが正しいかは別としてこれはどんな戦争でも勝ったほうが、負けたほうを裁くということが起きるのです。それは非常に難しい問題です。それぞれの事件を客観的に見られる人がいれば、これはかなり真実に近い判断が出来るでしょう。しかし、そうでなければ、戦争被害者の言葉が真実に近いと判断されてしまうのです。とても恐い事です。
そういう意味でも戦争とは悲惨な事なのです。無実の人が処刑されてしまう事がありえるのが戦争です。こんな戦争の実態を国民の何割の人が知っているのでしょう。今日のドラマは、それを考えさせられるものでした。

ぜひ、再放送して欲しいと思いました。
このドラマを見て、様々な人が様々な意見を述べ合い、皆さんで戦争について語りたいと思いました。






すごい反響になっています!

以前「静岡市空襲前の写真発見」のことを紹介しましたが、実は、この写真に関してすごい事になっているのです。
あまりの反響で、平和資料センターでは急きょこの写真の複製を製作し、販売を始めることになりましたんです
被害を受けた空襲体験者などの方々にとっては、自分達の住んでいた町が懐かしく思われ、また貴重な記録という事で反響が大きいのではないかと思います。
逆に言えば、それだけあまりない貴重な写真という事でしょう。確かに珍しい記録だと思います。県や市でもこういった資料は率先して保存を考えて欲しいですね。

ここから新聞記事内容

「空襲前後の静岡市街地」に反響

 戦災の記憶 複製写真に

  平和資料センター

 静岡平和資料館をつくる会(加藤一夫代表)は、太平洋戦争末期の静岡大空襲前後に撮影された旧静岡市街地の精密な航空写真(公開中)が予想を上回る反響を呼んでいるため、大型複製写真を製作し、8月3日より同市葵区相生町の静岡平和資料センタで販売を始める。

 写真は米軍機B29が1945年4月12日と空襲翌日の6月21日に高高度から撮影した。4月の写真では、当時、駿府城跡に置かれていた歩兵第三十四連隊の建物や練兵場などが鮮明に分かる。空襲被災後の6月の写真では、焼跡に残る県庁や市役所、日赤病院や静岡銀行のコンクリート製建物が識別できる。
 いずれも同会が調査依頼した原爆・空襲の調査専門家工藤洋三徳山高専教授(山口県)が、米国立公文書館でネガを発見した。
 建物が1軒1軒確認できるほどの高画質な複数枚のネガを合成処理した拡大写真は、公開後、大きな反響を呼んだ。火災を避けながら逃げた道や消失前の懐かしい建物を見つけた空襲体験者らから同会に寄せられた声は多く、写真の購入希望が相次いでいた。展示は9月23日まで毎週金―日曜、同センターで。
 複製写真は空襲前(50×80センチ)が1500円、空襲後(50×50)が1200円。2枚組みで2500円。静岡市葵区相生町6−20、静岡平和資料センターで販売する。問い合わせは、開館日(金―日曜)に同センター<電・ファックス054(247)9641>へ。』

ここまで新聞記事内容

静岡新聞朝刊 平成19年8月3日(金)社会面掲載より

写真の大きさからすると、かなり細かいところまで詳細な写真のようですね。これは現在の高度な技術処理によって可能だと思います。20〜30年前にもし発見されていても、ここまで精密に復元できなかったのではないかと思われます。そういう意味では、今公開複製された意義が大きいと思います。

インターネット上では、
現在見られる上記の写真は、メディアジャムニュース欄に掲載されています。

メディアジャム
http://mediajam.info/

「空襲前後の静岡市街地写真に反響」欄にて掲載。
http://mediajam.info/topic/183169

サイズはかなり小さいため、ほとんど判別できません。ご了承ください。
静岡にお近くの方は、静岡平和資料センターにぜひお出かけ頂き、現物をご覧になっていただければと思います。

静岡新聞のサイトからは残念ながら、サイト掲載から約1週間程で削除されているため、現在は見られません。

結局逃げるんですねえ・・・

インターネットで見るとよくわかるんですが、行政が絡んだ過去の戦争に対する記録収集や、戦争体験者の声などをまとめたものというのは、ほんの僅かしかありません。あれだけの被害を出した、国がおこした戦争に対して国や各自治体が本当に次世代に残そうという行動がみられません。つまり責任の所在をはっきりせずに、なんだかんだ理由をつけて避けているようにしか思えません。

インターネット上の戦争体験記録や、平和祈念資料館などは殆ど民間のボランティア団体が主宰しています。

主な体験記録集を紹介したサイトを取り上げて見ましょう。

戦争体験記録の載ったサイトを、もれなく紹介するリンク集サイトがあります。
「戦争を語り継ごう −リンク集−」です。
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/
このサイトは管理人さんのご努力により、インターネット上の戦争体験記録を掲載しているサイトを数多く紹介しております。膨大なリンク集だと思います。
体験記録を読んでみたい人や、戦争とはどんなものなのかを知りたい方に最適です。様々な方の戦争体験記がありますよ。

こちらも書籍情報がいっぱいです。
全国の自費出版による戦争体験記などを紹介し、そして更にその体験記をサイト上に掲載しています。全文掲載などもいくつかありますよ。
「私設文庫館 −太平洋戦争編−」です。
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/
このサイトは書籍情報が各社発行の戦争関連文庫本から、戦争関連自費出版、子供向け戦争関連本、地方公共団体発行戦争関連本など、実に様々な本を紹介していて、かなりの量になります。半端じゃありませんよ。



ここから新聞記事内容

戦争の資料収集

県内自治体も及び腰

 ボランティア主体の動き

 戦争体験者の高齢化が進む中、空襲にあった都市での資料収集や展示活動への行政の関与のあり方が近年、全国的にクローズアップされている。こうした活動は県内でもボランティア主体で行われているが、自治体の反応は鈍い。背景には財政難のほか、思想的になりかねない危惧があるとみられる。今後、貴重な資料が散逸する恐れもあり、ボランティア側は「戦争の記憶を伝えるには、行政の力を借りる以外にない」と危機感を強めている。

 静岡空襲で約2千人が犠牲になった静岡市では、約20年前から、市民による資料館建設の要望が続いているが、財政難などを理由に構想が棚上げされたまま。変わりに、有志で作る「静岡平和資料館をつくる会」(加藤一夫代表)が同市葵区相生町のビルで「静岡平和資料センター」を運営している。市からの補助は1ヶ月約300万円のテナント料だけで、費用の大半は会費や寄付でまかなっているという。
 同会の手塚一郎運営委員(66)は「他市と比べて補助があるだけ、静岡市は協力的」としながらも、「資料の検証などはボランティアでは無理。行政が主体的に活動してくれるのがベストだが・・・」と言葉を濁す。
 富士市でも市民組織「核兵器廃絶平和富士市民の会」が昨年、鈴木尚市長に常設展示場の確保などを要望したが、戦争資料の保管場所として青少年センターの1室が無償提供されただけ。
 同会の小長谷保代表(55)は「平和活動には思想・信条に絡んだケースが多く、市は展示場の建設に二の足を踏んでいるようだ。その対応ぶりにもどかしさを感じる」と話している。』

ここまで新聞記事内容

静岡新聞 平成19年8月14日(火) 朝刊掲載

う〜ん、微妙ですね。でもなぜ、そんなに思想・信条を気にするのかと思いますね。過去の忌まわしい戦争を振り返り、絶対に繰り返してはならないという思いがなぜ思想的になるのか? もっと単純に考えられないのかなあと感じます。
民間や個人の方も、そんな思想的な考え方で行動しているのではないと思いますが・・・。(確かにごく一部に、戦争を思想的に利用しているところもあるようですが)

あなたも考えてみてくださいね
今でも散逸している戦争記録(資料・体験記など)を本当に現状のままほったらかしにしておいてよいのか?

米国の被爆者死去

 新聞に小さな訃報記事が載っていました。
 記事は小さいですが、訃報の方の事は大きく取り上げて欲しいと思いました。

これより新聞訃報記事

広島、長崎の惨状撮影
  ジョー・オドンネル氏(米写真家)
  米紙テネシアン(電子版)によると、10日、脳卒中のため死去、85歳。
  米軍カメラマンとして原爆投下後の広島、長崎に入り、被爆した市内の惨状を撮影。亡くなった弟をおぶって立ち尽くす少年の写真などで知られる。
  その後、ホワイトハウスのカメラマンなども努めた。
  後年、広島や長崎で浴びた残留放射能による健康被害に苦しみ、米テネシー州ナッシュビルの自宅などで闘病。核兵器の悲惨さを訴える写真展開催に合わせて来日したこともある。(共同)』

ここまで新聞記事内容。

静岡新聞平成19年8月12日(日曜日) 朝刊社会面 訃報欄掲載

 原爆の惨状を知らせるための行動が、結局被爆者と同じ放射能で苦しめられた米国人。これは、原爆の恐ろしさを訴えるためには、とても重要な事だと思います。

 日本人も広島、長崎の被爆の後の救護、援助活動などで多くの方が入市しています。そして、残留放射能で被爆します。(2次被爆とでも言うのでしょうか?)

 これは今でも、被爆かどうかということで、国と被爆者の方との間で裁判が行われています。

 なんということでしょうか? 原爆で生き残った方たちも、その後同じように原爆症を発症し、亡くなられた方、後遺症が残った方など多くの方が存在しているのです。

 国はもっと、実情を把握すべきだと思います。そして、対応を早急に考えるべきです

 最近になって、現在の安倍首相が、原爆症の認定の見直しをすると表明していますが、遅いです! もっと被爆者の年齢、病状を考えればすぐにでも行うべきです

 マスコミももっと、このような記事を特集して、伝えるべきではないでしょうか? どうも、マスコミも表面だけは伝えますが、掘り下げていないと感じます。

 ちなみに今回のジョー・オドンネル氏の死去に関して、googleで検索したところ、約200件ほどがヒットしました。その割りにあまり表に出てこないですねえ。

これは貴重だ!

8月15日に放映される静岡第一テレビの午前0時41分:「’07ドキュメント静岡 静岡空襲」」に関連した新聞記事を紹介しましょう。


歴史的に大変貴重な写真が発掘された!
太平洋戦争中の空襲で各地で被害を受けましたが、その実態を表すものは、何といっても写真でしょう。各地で撮影された爆撃後の被災状況はを数多く残されていますが、意外にも被災前の写真は少ないのです。ましてや全体を見渡せる航空写真となると殆どありません。当時の状況からいって当然ですが、日本機からの撮影はまず不可能な状態なのです。ですから写真が少ないのです。

そういったなかで、ただひとつ米軍機が撮影したものは数多くあるらしいのです。
それは米国立公文書館には、まだまだ整理・検索されていない記録が残っているようなのです。
今回の1枚はその中の貴重な1枚なのです。

これを探し出した皆さんのご努力には感服いたします。そして、さらに新しい発見があることを期待したいと思います。

しかし、これは本来なら、国が率先して資料調査をするべきなのではないでしょうか? 
あの戦争をおこした国が、反省して過去の歴史をしっかりと後世に伝えるためにも、様々な戦争資料を調査し、残すことが必要なのです。
それが民間レベルでの調査が多いということは、本末転倒ではないですか。
国の予算の関係もあるかもしれませんが、もっと真剣に再考すべきではないでしょうか。

ここから記事内容です。

米機撮影の写真発見

 空襲前の静岡くっきり

  平和資料センター22日から公開

 太平洋戦争末期の大空襲前に米軍爆撃機によって撮影された旧静岡市街地の鮮明な航空写真がこのほど、米国立公文書館で見つかった。1軒1軒家屋を判別できる画像からは、62年前の詳細な街並みが浮かび上がる。静岡平和資料館をつくる会(代表・加藤一夫静大名誉教授)は、二年前に発見された焦土の航空写真に続く県都の貴重な資料として、6月22日から静岡市葵区相生町の静岡平和資料センターで公開する。

 旧市街は1945年6月20日、大空襲を受けて焦土と化すが、今回の航空写真はその2ヶ月余り前の4月12日に撮影された。B29爆撃機が日中、飛行機のエンジン部品を製作していた三菱重工業静岡発動機製作所(現在の同市駿河区小鹿3丁目)を爆撃後、旧市街2千−3千メートル上空を通過しながら撮影した。
 原爆・空襲の調査を続ける山口県の工藤洋三徳山高専教授が、同会の依頼を受けて同公文書館所蔵の未検索資料に当たり、原板のネガを探し出した。その後、地図データと照合して組み写真を補正し1枚に合成した。
 同会は2005年にも、工藤教授の協力を得て大空襲翌日の航空写真を発掘して公開した。反響の大きさから、空襲前の航空写真の調査を依頼していた。二つの写真を比べると、市街地被災の甚大さが分かる。
 同会運営委員の新妻博子さんは「焼ける前の街の写真が欲しいという強い要望が相次いでいた。1対の写真を見比べると、わずか2時間余りの空襲で街が破壊され、2千人を超す人が亡くなった戦争の恐ろしさを実感できる。いまだに記憶を引きずる人たちがいるという生きた歴史を知ってほしい」と話している。
展示は6月22日〜9月23日間の毎週金曜―日曜。
問い合わせは同会<電054(247)3660>へ


静岡大空襲
静岡・清水地区は1944年暮れから終戦まで計26回の空襲を受け、2350人余りが死亡した。
最大の空襲は1945年6月20日。米軍爆撃機B29123機が午前1時前から約2時間、焼夷弾などを投下して旧静岡市街の大半を焼き払った。』

ここまで記事内容です。

静岡新聞 平成19年6月16日(土曜日) 朝刊 社会欄掲載


静岡平和資料センターのホームページはこちらです。
http://homepage2.nifty.com/shizuoka-heiwa/

なお、静岡大空襲の書籍の紹介はこちらです。
私設文庫館−太平洋戦争編−
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/ 
              
上記内の地方団体発行欄NO.90「静岡市空襲の記録」です。
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/tihou90.html

あなたはどれを見ますか?

8月になると、テレビ番組に戦争関連の特集や、ドキュメンタリーなどが様々なテレビ局で放映されます。
8月6日、9日は当然ながら原爆関連です。
そして15日が近づいてきますと、太平洋戦争の過酷な戦いや空襲関連などが放映されます。

そんな中で、毎年健闘しているのは、NHKだと個人的には思います。
(別にNHKびいきでも何でもありませんが、様々な情報を色々な視点で番組を制作していると思います。)

本日12日も地上波、BS等で多くの番組が太平洋戦争を扱っていました。

・NHK総合−NHKスペシャル「ドラマ・鬼太郎が見た玉砕」
・NHK教育−ETV特集「城山三郎”昭和と格闘した作家”」
・NHKハイビジョン−HV特集「地獄を見たから生きてこられた−満蒙開拓団の戦後」
・NHKハイビジョン−「兵士達の戦争@見捨てられた戦場の悲劇」

私はこの中の「ドラマ・鬼太郎が見た玉砕」と「兵士達の戦争@見捨てられた戦場の悲劇」を見ることができました。
特に「鬼太郎が見た玉砕」は、漫画家の水木しげるさんがずっと背負ってきた戦友達の声と、当時の軍の理不尽さを漫画で書いたものなどを参考にドラマ化されたものです
玉砕したはずの部隊が転進して友軍部隊のいる地域に現れた事で、あわてる軍上層部。そして、玉砕部隊の兵隊が生きている事は許されないから米軍基地に切込みし、玉砕せよという命令をだすという実に身勝手な話でした。兵隊は何のために、戦争に行ったのでしょうか? これはある意味、特攻で特攻機の故障などのトラブルで帰還した搭乗員達も、軍は冷たく、早く死ねと言わんばかりに再出撃を命じたことと繋がりますね。

つまり軍のご都合主義だけで行われた作戦ですよ。これでは国のため、愛する人たちのために死んでいった兵はうかばれません。

もうひとつの「兵士達の戦争@見捨てられた戦場の悲劇」も、おなじように軍のご都合主義による作戦の犠牲になった部隊の生き残りの方たちが証言したものです。こちらは戦争体験者ご本人の口から出る真実の声です。
これは重いですね。当時の指揮官などが今も生きていてこれを見たらなんというでしょうか? 言い訳するんでしょうねえ、きっと。

太平洋戦争は、軍隊を指揮する人の資質によって、被害の多少がはっきりした戦争だと思います。只、残念なのは、そういう人間的に優れた資質を持つ指揮官は、そうそうはいなかったという事実です。

資質の優れた指揮官がもっと多ければ、無駄な死に方をしなくても済んだ兵隊が大勢いたのではないだろうかと感じます。

明日から放映される番組を次に掲載します。ぜひ、この機会にご覧になってください。

8月13日(月)
NHK総合 午後10時:NHKスペシャル「A級戦犯は何を語ったのか・東京裁判」

8月14日(火)
NHK総合 午後10時:「パール判事の真実」
NHKBS11 午後9時:映画「あゝひめゆりの塔」
        午前0時40分:映画「日本のいちばん長い日」

8月15日(水)
NHKBS11 午後9時20分:「吉永小百合・言葉で平和を紡ぎたい」
静岡第一テレビ 午前0時41分:「’07ドキュメント静岡 静岡空襲」」

8月16日(木) 
NHKBS7 午後10時10分:「証言記録・マニラ市街戦」

8月18日(土)NHKBS7 午後11時10分:「マッカーサーがみた日本降伏」

8月19日(日)NHKBS11 午後7時30分:「吉永小百合朗読会第二楽章ヒロシマ・ナガサキ・沖縄」

などです。
なかなか豊富ですが、これを見てもらって解かるように、民法のテレビ局はほとんど戦争関連の番組がありません。ニュース番組などで特集はありますが、番組としてのものは殆ど無いのが実状です。さびしいですねえ。
これが日本の平和と戦争に対する認識なのかもしれません・・・    

あなたは知っていましたか?

広島・長崎に投下された原爆の模擬弾が存在していたこと、そしてそれが実際投下されていたことを
それが昭和20年7月26日、静岡県島田市の扇町に投下されたたった一発の爆弾です。当然ながら、投下された当時はそれが模擬弾だとわかるはずもありませんが、戦後の調べで模擬弾だと判明したようです。いかにアメリカが原爆投下に対して、用意周到だったかがよくわかりますね。
そして、このあとほんの10日ほど後に、あの広島に人類最初の
原爆が投下されるのです。考えさせられますね・・・。

島田空襲の悲惨さ後世に
昭和20年7月26日原爆模擬弾投下
扇町被爆者を慰霊
 昭和20年7月26日、島田市扇町に原爆の模擬爆弾が投下され、多くの犠牲者が出た

「島田空襲」の悲惨さと平和への願いを後世に伝えようと、市と市平和祈念事業実行委は6月26日、「扇町被爆者慰霊のつどい」を同市の扇町公園で開いた。遺族や関係者ら150人が参列した。

 全員で黙とうした後、高木博之副市長が式辞を述べた。続いて、遺族・被爆者代表の村田守康さん(65)が平和の誓いを行い、母親が抱いて守ってくれたこと、その母親の首から20年後に爆弾の破片が見付かったことなどを振り返って「子供、孫、後世に戦争の悲惨さを語り継がなくてはならない。風化させてはいけない」と訴えた。
 島田二小6年の安原香弥さん、滝俊介君は授業で習った戦争について触れ、「扇町の被爆を知り、本当に悲しくなった。戦争は二度としてはいけない」と語った。
 参列者代表の献花に続き、コーラスグループ「パルファム」とともに全員で「千の風になって」などを歌い、犠牲者の冥福を祈った。
 島田空襲は昭和20年7月26日の朝八時半ごろ起きた。同市扇町に「パンプキン爆弾」と呼ばれる五トンの原爆の模擬爆弾が投下され、33人が即死するなど大きな被害が出た。56年に祈念碑が建立され、犠牲者47人の名前が刻まれている。』

静岡新聞 平成19年7月27日(金曜日)朝刊 地方欄掲載

この島田市扇町被爆の記録が「島田市戦時資料を集める会」が編集、「島田市平和祈念式典実行委員会」が発行しました『島田市扇町 被爆の記録』です。

この内容紹介がこちらのホームページにあります。

「私設文庫館 −太平洋戦争編−」
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/の中の
地方団体発行欄NO.141「島田市扇町・被爆の記録」
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/tihou141.htmlです。

ぜひご覧になってみてください。
もっと詳しい内容を知りたい方は図書館に問い合わせした見てください。蔵書としてあるはずです。

このような地方の記録は探せばまだまだあるはずです
そしてその貴重な体験記や記録を後世に残すことが必要だと思います。さらにそれを公表する事(国民が閲覧できる状態にすること)が戦争体験を埋もれさせない事になると思います。

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