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おじいちゃん戦争のことを教えて―孫娘からの質問状

平成10年よりアサヒビール名誉顧問である中條さんの戦争中の体験及び考え方を綴ったものです。

 あるときニューヨークに家族で滞在する孫娘の馬場さんから届いたのが、1通の分厚い手紙でした。それには孫娘の馬場さんが通うアメリカのマスターズスクールの女性教師から課題が出たが、それが第二次大戦時の家族や知人の戦争体験者の話を聞こうということでした。そこで馬場さんはおじいちゃんの中條さんを頭に浮かべ、質問状という形でおじいちゃん宛に分厚い手紙を送ったのでした。

 この本は、その孫娘の馬場さんがおじいちゃんに送った質問状に答えていく形で、中條さんが戦争体験、そして考え方を述べていったものです。

 中條さんは、質問に対して真摯に、また率直な意見を述べながら答えています。これは孫娘の馬場さんに答えると同時に今の若い方にも述べているのだと思います。ぜひ本書を手にとって読んで欲しいと思います。

 詳しい内容紹介はこちらへ
 http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/hoka119.html


中條高徳さんの著書です。
ご興味のある方はどうぞ。

1.おじいちゃん戦争のことを教えて―孫娘からの質問状

2.おじいちゃん日本のことを教えて―孫娘からの質問状

3.子々孫々に語りつぎたい日本の歴史

4.魂を抜かれた日本人―歴史に学ぶ日本人の生きざま (マイ・ブック)

5.立志の経営―アサヒビールの復活の原点とわがビジネス人生 (致知選書)

6.小が大に勝つ兵法の実践―アサヒビール再生の要因

7.おじいちゃんの「わが闘争」

8.兵法に学ぶ勝つために為すべきこと―アサヒビール起死回生の経営戦略と人生哲学

9.事の成るは成る日に成るにあらず―アサヒビールの奇跡 小説・中条高徳

『大東亜戦史』1 太平洋編

太平洋戦争(大東亜戦争)が始まってから66年がたちました。終戦(敗戦)記念日はご存知の方が多いのですが、この12月8日の開戦の日は意外と今の若い人たちは知らないようですね。この日もいろいろな意味で重要な日だと思いますが。いかがでしょうか? ちなみに報道関係ではこれに関連したものはほとんどありませんでした。

さて、その太平洋戦争(大東亜戦争)を各地域別にまとめたものがこれから紹介する書籍です。 大東亜戦争(太平洋戦争)時の各社の従軍記者たちが、自分の経験、体験したことを報道として記録したものです。

 様々な戦いのその場にいた記者たちが綴った、兵士とはまた違った見方の記録です。多少文学的表現も見られますが、これが発行された昭和40年代と現代とは時代背景が異なりますので、まあこれはよしと考えてご覧いただければと思います。しかし多くの従軍記者たちが、最前線へと向かい、そこで国民に知らせるためとはいえ、ある意味命がけだったと思います。軍の高級将校よりもよっぽど戦争の現場を見聞きし、実際の戦争と机上の空論とは随分と違うということを感じたのではと思います。そういった視点からも非常に貴重な報道記録だと思います。

 この第一巻の「太平洋編」は、『昭和16年秋、ひそかに姿を消した機動部隊は12月8日、真珠湾を奇襲した。その日から太平洋の海と空と島に攻防四年、戦艦大和の特攻出撃まで、連合艦隊の航跡を中心に、雲を染め、孤島を揺るがした日米激闘の姿を生き生きと刻む・・・・』(帯の紹介文より)という内容です。様々な戦いのその場にいた記者たちが綴ったもので、兵士とはまた違った見方の記録です。

詳しい内容はリンク先の私設文庫館−太平洋戦争編−の
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/hoka130.html
に掲載されています。

そして上記のHPには、他に下記の書籍の紹介があります。
1.『補充兵記者』

2.『実録・比島報道部隊 サンパギタ咲く戦線で』


アマゾンにも報道関係の戦争体験記あります。
1.補充兵記者

戦時下の庶民日記

戦争中に様々な立場の人が書いた日記。

戦時下の庶民日記」
 青木正美著
 発行 株式会社日本図書センター
 発行日 1987年4月25日

 東京下町にて1953年に古本屋を開業した店主が、古本市場の片隅から発掘した数々の戦時下日記を紹介しています。11編の日記を著者の立場を理解しながら、戦争中に国民一人一人が戦地で、あるいは銃後でどのようなことを記していたかを肉筆日記を元に編集したものです。

 軍人を始として、留守を守る妻達の銃後の生活を綴った日記から、ある町長の感情を現さない日々刻々の出来事を淡々と記す日記まで様々な日記を肉筆の一部を紹介しながら筆者の思いを記しています。

 本来日記は公開するために書かれたものではありませんが、当時の人々は結構まめに日記をつけています。戦争体験が希薄な現代には、当時の生活や考え方を知る為には、大変貴重な資料となるわけです。

 ただ、そういう貴重な記録といっても、「実際には日記を書ける人というのは上級学校卒業あるいはその教育を受けた者に限られていたことからすると、本来の庶民の日記ではないのではないか」と著者は述べています。しかし、だからといってこの「日記作者達を庶民から除外は出来ない」とさらに著者は次のように述べています。「戦前戦中を垣間見、育った町の貧しい身辺にも努力して中学、師範学校などに通学していた人たちを見聞きした私はこの人たちを庶民から除外できない。」(終章 敗戦と戦後教育が私をつくった内の著者の文より引用)

 なにはともあれ、今となっては、書かれた方がどんな知識がある人であっても貴重な体験記録という事には違いないと私は思います。

そしてこちらの「私設文庫館 -太平洋戦争編-」のホームページの中にもいくつかの日記が掲載されていますが、その中で全文掲載をしているご夫婦の戦地での日記と銃後の日記とがそれぞれほぼ同じ時期にかかれたものがあります。是非そちらをお読みいただければ、当時の戦地の兵士の様子や銃後の妻達の生活などがよくわかるのではないかと思います。

こちらです。

 飢餓の比島 ミンダナオ戦記」 平岡 久著

「銃後の妻の戦中日記」     平岡 弥よい著


他にもこんな戦中日記がありますよ。

 中井英夫戦中日記 彼方より 完全版

 ある中学生の戦中日記―阪神空襲実録

 警報の鳴る町 私の戦中日記

 作家の戦中日記―1932‐45

 
 

原爆投下のB29機長死去

 太平洋戦争の歴史がまた一つ消えていく。終戦後、既に60年を過ぎていることを実感することが多くなっています。

 11月1日、広島に史上初めて原爆を投下した米軍B29爆撃機の機長が死去、と各メディアが報道しています。
 (Googleの検索で約2000件でます。)


詳細
 AP通信によると、11月1日、太平洋戦争の1945年8月6日、広島に史上初めて原爆を投下した米陸軍航空隊B29爆撃機「エノラゲイ」の機長と知られるポール・ティベッツ退役准将(当時大佐)が同日、アメリカオハイオ州コロンバスの自宅で病気のため死去したと伝えた。92歳だった。同氏のスポークマンが語った。

 アメリカイリノイ州クインシー生れ。陸軍士官学校などを経て、1937年ケンタッキー州の陸軍航空隊入り。1943年にB29爆撃機の試験飛行に参加する。44年秋、原爆投下の実行部隊である第509混成飛行団の指揮官に抜てきされた。原爆投下部隊の発進基地となったテニアン島で、原爆開発のための「マンハッタン計画」に関与し、爆撃機の整備や部隊の訓練などを担当した。広島への出撃前日の8月5日、自身の母親の名にちなみ、「リトル・ボーイ」の暗号名を持つウラン濃縮型原爆を搭載したB29を「エノラ・ゲイ」と名付けた。
 
 そして、エノラ・ゲイの機長として太平洋のテニアン島を離陸、1945年8月6日、広島に世界史上最初の原爆を投下した。一瞬にして約14万人の命が奪われた




 同氏は生前、「原爆投下は戦争を終結させるためだった」とか「原爆は大きな戦争を抑止してきた」とメディアの取材に語っていた。原爆投下の正当性を疑っておらず「後悔はとんでもない」と死去するまでこの考えをかえなかった。

 B29爆撃機の搭乗員の中には、戦後、原爆投下を後悔し、それの悲惨さを訴えた人も確かいたと思いますが、この機長はいかにも勝者のアメリカらしい都合の良い考え方だなと感じますが、実際にこの原爆の被害に遭われた方たちにすれば、この悲惨さや苦痛はそんな理由で正当化されるものではないと言われると思います。

 メディアもそこのところをもっと深く掘り下げて報道するという事は無いのでしょうか? 終戦後60余年経ても、今でも原爆症はなくなっておりません。それほど強力な影響を与える兵器だということをもっと伝えてください。ただ単に、死亡記事を報道するだけではなく、関連した記事を報道して欲しいです。原爆被害の日だけ報道するだけで、それ以外はほとんど報道しないという日本のマスコミは、(芸能情報などのワイドショー的な内容のものは毎日でも報道するのに・・・)反省するべきだと思います。



原爆関連情報

原爆の子
出演: 乙羽信子, 滝沢修, 清水将夫, 宇野重吉, 多々良純
監督: 新藤兼人
時間: 85 分
内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
原爆の洗礼を受けた子供たちが綴った、胸をうつ作文を基に脚色。英国アカデミー国連賞も受賞した。近代映画協会の第1回自主映画作品。出演は、新藤監督映画に数多く出演している乙羽信子(『三文役者』『釣りバカ日誌5』)。

実録第二次世界大戦史 第五巻 戦争裁判と原爆の悲劇/アメリカの敵、日本

死んでも死に切れない!

またしても、国が認めない戦争被害。

蟻の兵隊―日本兵2600人山西省残留の真相
  池谷 薫著 1470円 2007年7月25日発売 新潮社発行
  978−4−10−305131−2
  敗戦後も中国に残り、共産党軍と戦い続けた日本兵たちがいた。
  彼らに3年半もの死闘を強いたのは誰だったのか?
  元残留兵らの執念が暴きだした歴史の闇。

私が久しぶりに購入した新刊本が上記の『蟻の兵隊』です。
実は私の購読している静岡新聞・日曜日朝刊の読書欄にこの本の紹介記事が載っていました。
その紹介を読み、う〜んこんな事があったんだと思い、近くの書店へ行きましたが、在庫がありませんでした。日を改めて、市内の最近オープンした大きな書店へ行き、探しましたらありました。即買いでした。
それからは、集中した時間がなかなか取れないため、風呂に入りながらとかベッドに入って寝る前に読むとかしまして読了しました。ここではその読後感等を紹介しようと思います。

最初に思ったのは、この内容は最近話題になっている沖縄の集団自決の教科書検定の削除問題に似ていると思ったのです。
それは国と民衆との認知の面での戦いということでした

沖縄の集団自決の場合は、教科書の検定により一部記述を削除すると言うものでした。この場合問題なのは、教科書検定をする立場の方(委員)が、本当に公正な様々な立場から選ばれたのかという事に始まると思います。
国の考えに近い方が集められてはいなかったか?
どちらかというとタカ派的な小泉元総理大臣、安倍前総理大臣の意に沿う方が選ばれているような気がしてなりません。これでは本当の歴史を伝える事は出来ません。
特に若い方に教える歴史の教科書では、常に公正明大な立場で歴史を伝える事が必要だと感じます。

さて、本題の『蟻の兵隊』の紹介にすすみます。
これは既にご存知の方もあると思いますが、2006年夏に公開されたドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」監督の池谷さんが、約2時間の映画では全貌を伝える事が出来なかったため、活字にまとめたいと考え、執筆されたものです。
膨大な資料と元残留兵の方達の手記を基に編纂したとでも言ってよい、実に元残留兵のそれこそ血を吐く思いが綴られたある意味歴史に対する訴えなのです。

これはかなり衝撃的でした。
終戦後(ポツダム宣言受諾後)も中国の山西省でしかも現在の中国を作った共産党軍(八路軍)と、残留した日本人の兵隊が国民党の組織の一部となって戦っていたという事実があったのです。

シベリア抑留等で日本への帰国が遅くなった事は有名ですが、それ以外にこういう理由で帰国が大幅に遅くなった事があったのです。しかもそれが本人達の意思ではなく、所属軍隊の命令という形で蟻のごとく戦闘に明け暮れたのです。

現地除隊をした後、国民党軍のために山西省に残ったというのです。しかし、この現地除隊という処理を本人達は知らされずに上官からの命令で軍隊として戦っていたのです

そのために、この兵隊達は山西省太源で戦いをし、戦死した人も大勢いました。そして国民党の太源での敗北により、共産党軍の捕虜となり、ある人達は戦犯として長く抑留されました。そしてようやく日本に帰国すると、軍人ではなく、民間人としての帰国と伝えられたのです。

つまり長い間、終戦後も日本のためと言われ、中国山西省にて戦ってきた苦労が全くの見返りも無く、逆に「逃亡兵」として扱われ、彼らが求める戦後補償を拒否したのです。

この原因は軍司令官及び参謀の自分達の行動を正当化するため、更に自分達の保身のために行ったことです

しかもこの司令官と参謀は、戦後(昭和31年)の国会内での証言でも山西残留の件は自分達は命令した事は無いと完全に逃げています。その時に、山西省に残留した部下の将校や兵達の証言は、ことごとく無視されたも同然の扱いでした。

それは当時ポツダム宣言を受諾したという事は、「終戦後は一切軍隊としての戦争はしてはいけない」ということの為、「実際に中国山西省で戦争をしていた事実」を国が認めるわけにいかなかったという政策的な判断が国側にあったという状況もありますが、そういう事情があったにしても、実際に残留して戦った兵達、とくに戦死した方の遺族は残念無念だったと思います。
何のために、そして誰のためにわざわざ自分の意思でも無く残留したのかという自問自答の状況ではなかったかと思います。

年月が過ぎ、残留者達は帰国後ずっと、資料を集め証言を集め、国に対して兵隊として戦ったということを認めるよう個人的に請願は続けられました。
そして平成3年(1991年)に元残留兵たちは「全国山西省在留者団体協議会」を結成し、一丸となって請願を行う事になったのです。

しかし、国は終戦当時の考え方を変えずに年月が過ぎ、平成9年(1997年)にようやく国も重い腰を上げ、国会閉会後の参議院決算委員会にて山西残留問題が取り上げられるも、結局、最終的に国側の判断は、昭和31年の厚生省の見解にもとづき、進展は見られなかった。

元残留兵が動いたのは、平成13年(2001年)5月でした。軍人恩給の支給を求めて国を提訴したのです。軍人恩給支給が目的ではなく、恩給を勝ち取る事が残留後も軍籍があったことの証明だからという考えです。
しかし、東京地方裁判所では、平成16年4月訴えは認められず全面敗訴した。
そして、平成17年3月東京高等裁判所での判決は、またしても全面敗訴した。
最後に、平成17年9月最高裁判所は、上告を棄却した。

いずれも残留の意思に関しての判断が、軍の命令によるものとはいえない、という今まで通りの考え方が踏襲されたものだった。(高等裁判所では、一部不本意ながら残留と言う言葉が出たものの、判決には反映していない。)

この裁判の間に、高齢の元残留者たちは鬼籍に入る方が何人もあった。しかし残る人たち(80歳以上の高齢にもかかわらず)は、裁判をやり直す覚悟である。
嘘の歴史を残すわけにはいかない」これが全てだという。

日本軍の司令官・参謀の中に、こんな人たちがいたことが様々な悲劇を作り出したのだという思いがします。
そして、戦争中も終戦後もそれを国が国の体面のために、高級将校以外の将校・兵士を見殺しにしているのです。

参考
1.映画『蟻の兵隊』
  公式ホームページ
  http://www.arinoheitai.com/

2.「新・昭和史七つの謎4 初公開・大本営参謀の告白文書」
  「文藝春秋」2006年6月号記事
  ノンフィクション作家保坂正康著
「元大本営作戦参謀の朝枝繁春が、昭和20年8月に作戦命令を関東軍、北方軍、朝鮮軍、そして第一軍を管轄する支那派遣総軍に示達したことを、私家版の手記から明らかにした。その驚くべき内容は終戦後の帝国復興再建のために、日本軍将兵を中国大陸に温存せよということである。」つまり、国が深く関与していた事を思わせるということです。

3.白狼の爪跡―山西残留秘史
永富博道著 新風書房発行 1995年

あなたはどう思いましたか?

あなたは、どう感じますか?
戦犯という言葉を・・・・。


意外に近いところから、戦犯という言葉が聞かれたという感じです。私の住んでいる町から近い町で聞かれた言葉。戦争の被害・影響は幅広く、また庶民の中にも広がっていたということでしょうか。

戦犯というと、軍の上級将校が中心というイメージがありますが、(首相の参拝でも最近の話題にもなりました、靖国神社に合祀されている東条英機などが知られていますが)下級将校にも戦犯容疑が多く掛けられました。実際に捕虜虐待や住民を殺害した将校・兵らは有罪となった人もいます。
今回の方のように、軍の命令でした事が容疑となった事も多かったようです。当然ながら、冤罪で有罪となり、処刑された方もあるようです

しかし、そういった戦犯容疑のことなどを文章として残すことに、当事者の方々はなかなか抵抗があったと思います。

それを冊子にして、若い人に読んでもらっている方がいるのです。勇気のいる事だと思います。ご本人は戦争の語り部として当然との思いでなさっているようです。こういう方が記録を残してくれることが、次世代の人にとっては、とても貴重なものとなるでしょう。

戦争とは? 何のためにするのか? 戦争は勝てば良いのか? などなど多くの疑問符があります。それを全て回答できる人はいないと思います。しかし、一つでも答えが得られるように、戦争体験を残すことだと思います。

こういった記録が全国津図浦々にあると思いますね。それをまとめたら、
どんなにか悲惨な戦争・軍隊の記録集が出来ることでしょうか。


ここから新聞記事

若者に語る戦争の記憶

 戦犯容疑死見つめた日々

 85歳 藤枝の酒井さん

 平和への思い冊子に
 「死を見つめる境遇は次世代に経験させたくない」−。戦後、C級戦犯として収容され、死も覚悟した酒井清次さん(85)=藤枝市上薮田。3年前から戦争体験を小冊子にまとめては、若い世代に配っている。15日で終戦から62年。若者は酒井さんの体験に衝撃を受ける。
「憲法9条の改正論議に無関心な若者が多い。われわれの生活と直結しているのに」と憂える。
 表題「運命」と「戦場であった同級生」では、戦争に翻弄される人生、親しい人の死による恐怖心を取り上げた。「私の命は風前のともしび」「人の生死は運任せ」−。
 終戦はシンガポールで知った。「輸送中隊長代理・陸軍少尉」として、物資を前線部隊に輸送していた。「日本は負ける。玉砕せよ」。上官の命令が下った直後に終戦。命は永らえたが、帰国はすぐに実現しなかった。
 「ビスケットの話」では、「捕虜虐待」の容疑で連合国軍に身柄を拘束され、シンガポールのチャンギ刑務所に3ヶ月間収容された事を明かした。うわさでは絞首刑。「どうしておれが」と”日本の聖戦”を恨んだ。1日2回の食事に供されたビスケット3枚に、わずかに癒された。
 各冊子は50部前後作成し、治療に通う病院の患者らに渡している。長女の孝子さん(58)は「戦争を知らない世代も読みやすいようにと、難解な表現を少なくしている」と父の思いを話す。
 デイサービス職員の翔木大輔さん(28)=藤枝市藤岡=は冊子だけでなく、体験談をじかに聞いた。酒井さんが戦犯として刑務所にいたことに衝撃を受けた。
 「これまでは戦犯と聞いてもピンとこなかった」。戦争の話題に友人の関心は低い。「体験者の話は重い」と戦争を伝える重要性を実感した。
 近年、病気がちの酒井さんだが、戦争の語り部は続ける。「天国に戦争はないだろう。いつか戦友に会ったら、21世紀の素晴らしさを伝えたい」と思っている。

ここまで新聞記事

静岡新聞 平成19年8月15日 朝刊社会面掲載


今回の投稿は、実は2日前にメモ帳に記録していたものです
そして、本日投稿するつもりでいたのですが、きしくも本日8月24日、日本テレビ系列にて、BC級戦犯の方のドラマが放映されました。迂闊にも私は、これを知りませんでした。戦争情報のブログとして情けない話ですね。

2時間半の終戦記念特別ドラマと銘打ったものです。
私はとうとう最後まで見てしまいました。途中何度か涙しながら見ていました。「私は貝になりたい」という有名なフレーズで知られる戦犯容疑の方の手記を基に作られたものだそうです。

戦争とは、必ず勝ち負けがある戦いですその判断そのものが正しいかは別としてこれはどんな戦争でも勝ったほうが、負けたほうを裁くということが起きるのです。それは非常に難しい問題です。それぞれの事件を客観的に見られる人がいれば、これはかなり真実に近い判断が出来るでしょう。しかし、そうでなければ、戦争被害者の言葉が真実に近いと判断されてしまうのです。とても恐い事です。
そういう意味でも戦争とは悲惨な事なのです。無実の人が処刑されてしまう事がありえるのが戦争です。こんな戦争の実態を国民の何割の人が知っているのでしょう。今日のドラマは、それを考えさせられるものでした。

ぜひ、再放送して欲しいと思いました。
このドラマを見て、様々な人が様々な意見を述べ合い、皆さんで戦争について語りたいと思いました。






すごい反響になっています!

以前「静岡市空襲前の写真発見」のことを紹介しましたが、実は、この写真に関してすごい事になっているのです。
あまりの反響で、平和資料センターでは急きょこの写真の複製を製作し、販売を始めることになりましたんです
被害を受けた空襲体験者などの方々にとっては、自分達の住んでいた町が懐かしく思われ、また貴重な記録という事で反響が大きいのではないかと思います。
逆に言えば、それだけあまりない貴重な写真という事でしょう。確かに珍しい記録だと思います。県や市でもこういった資料は率先して保存を考えて欲しいですね。

ここから新聞記事内容

「空襲前後の静岡市街地」に反響

 戦災の記憶 複製写真に

  平和資料センター

 静岡平和資料館をつくる会(加藤一夫代表)は、太平洋戦争末期の静岡大空襲前後に撮影された旧静岡市街地の精密な航空写真(公開中)が予想を上回る反響を呼んでいるため、大型複製写真を製作し、8月3日より同市葵区相生町の静岡平和資料センタで販売を始める。

 写真は米軍機B29が1945年4月12日と空襲翌日の6月21日に高高度から撮影した。4月の写真では、当時、駿府城跡に置かれていた歩兵第三十四連隊の建物や練兵場などが鮮明に分かる。空襲被災後の6月の写真では、焼跡に残る県庁や市役所、日赤病院や静岡銀行のコンクリート製建物が識別できる。
 いずれも同会が調査依頼した原爆・空襲の調査専門家工藤洋三徳山高専教授(山口県)が、米国立公文書館でネガを発見した。
 建物が1軒1軒確認できるほどの高画質な複数枚のネガを合成処理した拡大写真は、公開後、大きな反響を呼んだ。火災を避けながら逃げた道や消失前の懐かしい建物を見つけた空襲体験者らから同会に寄せられた声は多く、写真の購入希望が相次いでいた。展示は9月23日まで毎週金―日曜、同センターで。
 複製写真は空襲前(50×80センチ)が1500円、空襲後(50×50)が1200円。2枚組みで2500円。静岡市葵区相生町6−20、静岡平和資料センターで販売する。問い合わせは、開館日(金―日曜)に同センター<電・ファックス054(247)9641>へ。』

ここまで新聞記事内容

静岡新聞朝刊 平成19年8月3日(金)社会面掲載より

写真の大きさからすると、かなり細かいところまで詳細な写真のようですね。これは現在の高度な技術処理によって可能だと思います。20〜30年前にもし発見されていても、ここまで精密に復元できなかったのではないかと思われます。そういう意味では、今公開複製された意義が大きいと思います。

インターネット上では、
現在見られる上記の写真は、メディアジャムニュース欄に掲載されています。

メディアジャム
http://mediajam.info/

「空襲前後の静岡市街地写真に反響」欄にて掲載。
http://mediajam.info/topic/183169

サイズはかなり小さいため、ほとんど判別できません。ご了承ください。
静岡にお近くの方は、静岡平和資料センターにぜひお出かけ頂き、現物をご覧になっていただければと思います。

静岡新聞のサイトからは残念ながら、サイト掲載から約1週間程で削除されているため、現在は見られません。

結局逃げるんですねえ・・・

インターネットで見るとよくわかるんですが、行政が絡んだ過去の戦争に対する記録収集や、戦争体験者の声などをまとめたものというのは、ほんの僅かしかありません。あれだけの被害を出した、国がおこした戦争に対して国や各自治体が本当に次世代に残そうという行動がみられません。つまり責任の所在をはっきりせずに、なんだかんだ理由をつけて避けているようにしか思えません。

インターネット上の戦争体験記録や、平和祈念資料館などは殆ど民間のボランティア団体が主宰しています。

主な体験記録集を紹介したサイトを取り上げて見ましょう。

戦争体験記録の載ったサイトを、もれなく紹介するリンク集サイトがあります。
「戦争を語り継ごう −リンク集−」です。
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/
このサイトは管理人さんのご努力により、インターネット上の戦争体験記録を掲載しているサイトを数多く紹介しております。膨大なリンク集だと思います。
体験記録を読んでみたい人や、戦争とはどんなものなのかを知りたい方に最適です。様々な方の戦争体験記がありますよ。

こちらも書籍情報がいっぱいです。
全国の自費出版による戦争体験記などを紹介し、そして更にその体験記をサイト上に掲載しています。全文掲載などもいくつかありますよ。
「私設文庫館 −太平洋戦争編−」です。
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/
このサイトは書籍情報が各社発行の戦争関連文庫本から、戦争関連自費出版、子供向け戦争関連本、地方公共団体発行戦争関連本など、実に様々な本を紹介していて、かなりの量になります。半端じゃありませんよ。



ここから新聞記事内容

戦争の資料収集

県内自治体も及び腰

 ボランティア主体の動き

 戦争体験者の高齢化が進む中、空襲にあった都市での資料収集や展示活動への行政の関与のあり方が近年、全国的にクローズアップされている。こうした活動は県内でもボランティア主体で行われているが、自治体の反応は鈍い。背景には財政難のほか、思想的になりかねない危惧があるとみられる。今後、貴重な資料が散逸する恐れもあり、ボランティア側は「戦争の記憶を伝えるには、行政の力を借りる以外にない」と危機感を強めている。

 静岡空襲で約2千人が犠牲になった静岡市では、約20年前から、市民による資料館建設の要望が続いているが、財政難などを理由に構想が棚上げされたまま。変わりに、有志で作る「静岡平和資料館をつくる会」(加藤一夫代表)が同市葵区相生町のビルで「静岡平和資料センター」を運営している。市からの補助は1ヶ月約300万円のテナント料だけで、費用の大半は会費や寄付でまかなっているという。
 同会の手塚一郎運営委員(66)は「他市と比べて補助があるだけ、静岡市は協力的」としながらも、「資料の検証などはボランティアでは無理。行政が主体的に活動してくれるのがベストだが・・・」と言葉を濁す。
 富士市でも市民組織「核兵器廃絶平和富士市民の会」が昨年、鈴木尚市長に常設展示場の確保などを要望したが、戦争資料の保管場所として青少年センターの1室が無償提供されただけ。
 同会の小長谷保代表(55)は「平和活動には思想・信条に絡んだケースが多く、市は展示場の建設に二の足を踏んでいるようだ。その対応ぶりにもどかしさを感じる」と話している。』

ここまで新聞記事内容

静岡新聞 平成19年8月14日(火) 朝刊掲載

う〜ん、微妙ですね。でもなぜ、そんなに思想・信条を気にするのかと思いますね。過去の忌まわしい戦争を振り返り、絶対に繰り返してはならないという思いがなぜ思想的になるのか? もっと単純に考えられないのかなあと感じます。
民間や個人の方も、そんな思想的な考え方で行動しているのではないと思いますが・・・。(確かにごく一部に、戦争を思想的に利用しているところもあるようですが)

あなたも考えてみてくださいね
今でも散逸している戦争記録(資料・体験記など)を本当に現状のままほったらかしにしておいてよいのか?

米国の被爆者死去

 新聞に小さな訃報記事が載っていました。
 記事は小さいですが、訃報の方の事は大きく取り上げて欲しいと思いました。

これより新聞訃報記事

広島、長崎の惨状撮影
  ジョー・オドンネル氏(米写真家)
  米紙テネシアン(電子版)によると、10日、脳卒中のため死去、85歳。
  米軍カメラマンとして原爆投下後の広島、長崎に入り、被爆した市内の惨状を撮影。亡くなった弟をおぶって立ち尽くす少年の写真などで知られる。
  その後、ホワイトハウスのカメラマンなども努めた。
  後年、広島や長崎で浴びた残留放射能による健康被害に苦しみ、米テネシー州ナッシュビルの自宅などで闘病。核兵器の悲惨さを訴える写真展開催に合わせて来日したこともある。(共同)』

ここまで新聞記事内容。

静岡新聞平成19年8月12日(日曜日) 朝刊社会面 訃報欄掲載

 原爆の惨状を知らせるための行動が、結局被爆者と同じ放射能で苦しめられた米国人。これは、原爆の恐ろしさを訴えるためには、とても重要な事だと思います。

 日本人も広島、長崎の被爆の後の救護、援助活動などで多くの方が入市しています。そして、残留放射能で被爆します。(2次被爆とでも言うのでしょうか?)

 これは今でも、被爆かどうかということで、国と被爆者の方との間で裁判が行われています。

 なんということでしょうか? 原爆で生き残った方たちも、その後同じように原爆症を発症し、亡くなられた方、後遺症が残った方など多くの方が存在しているのです。

 国はもっと、実情を把握すべきだと思います。そして、対応を早急に考えるべきです

 最近になって、現在の安倍首相が、原爆症の認定の見直しをすると表明していますが、遅いです! もっと被爆者の年齢、病状を考えればすぐにでも行うべきです

 マスコミももっと、このような記事を特集して、伝えるべきではないでしょうか? どうも、マスコミも表面だけは伝えますが、掘り下げていないと感じます。

 ちなみに今回のジョー・オドンネル氏の死去に関して、googleで検索したところ、約200件ほどがヒットしました。その割りにあまり表に出てこないですねえ。

これは貴重だ!

8月15日に放映される静岡第一テレビの午前0時41分:「’07ドキュメント静岡 静岡空襲」」に関連した新聞記事を紹介しましょう。


歴史的に大変貴重な写真が発掘された!
太平洋戦争中の空襲で各地で被害を受けましたが、その実態を表すものは、何といっても写真でしょう。各地で撮影された爆撃後の被災状況はを数多く残されていますが、意外にも被災前の写真は少ないのです。ましてや全体を見渡せる航空写真となると殆どありません。当時の状況からいって当然ですが、日本機からの撮影はまず不可能な状態なのです。ですから写真が少ないのです。

そういったなかで、ただひとつ米軍機が撮影したものは数多くあるらしいのです。
それは米国立公文書館には、まだまだ整理・検索されていない記録が残っているようなのです。
今回の1枚はその中の貴重な1枚なのです。

これを探し出した皆さんのご努力には感服いたします。そして、さらに新しい発見があることを期待したいと思います。

しかし、これは本来なら、国が率先して資料調査をするべきなのではないでしょうか? 
あの戦争をおこした国が、反省して過去の歴史をしっかりと後世に伝えるためにも、様々な戦争資料を調査し、残すことが必要なのです。
それが民間レベルでの調査が多いということは、本末転倒ではないですか。
国の予算の関係もあるかもしれませんが、もっと真剣に再考すべきではないでしょうか。

ここから記事内容です。

米機撮影の写真発見

 空襲前の静岡くっきり

  平和資料センター22日から公開

 太平洋戦争末期の大空襲前に米軍爆撃機によって撮影された旧静岡市街地の鮮明な航空写真がこのほど、米国立公文書館で見つかった。1軒1軒家屋を判別できる画像からは、62年前の詳細な街並みが浮かび上がる。静岡平和資料館をつくる会(代表・加藤一夫静大名誉教授)は、二年前に発見された焦土の航空写真に続く県都の貴重な資料として、6月22日から静岡市葵区相生町の静岡平和資料センターで公開する。

 旧市街は1945年6月20日、大空襲を受けて焦土と化すが、今回の航空写真はその2ヶ月余り前の4月12日に撮影された。B29爆撃機が日中、飛行機のエンジン部品を製作していた三菱重工業静岡発動機製作所(現在の同市駿河区小鹿3丁目)を爆撃後、旧市街2千−3千メートル上空を通過しながら撮影した。
 原爆・空襲の調査を続ける山口県の工藤洋三徳山高専教授が、同会の依頼を受けて同公文書館所蔵の未検索資料に当たり、原板のネガを探し出した。その後、地図データと照合して組み写真を補正し1枚に合成した。
 同会は2005年にも、工藤教授の協力を得て大空襲翌日の航空写真を発掘して公開した。反響の大きさから、空襲前の航空写真の調査を依頼していた。二つの写真を比べると、市街地被災の甚大さが分かる。
 同会運営委員の新妻博子さんは「焼ける前の街の写真が欲しいという強い要望が相次いでいた。1対の写真を見比べると、わずか2時間余りの空襲で街が破壊され、2千人を超す人が亡くなった戦争の恐ろしさを実感できる。いまだに記憶を引きずる人たちがいるという生きた歴史を知ってほしい」と話している。
展示は6月22日〜9月23日間の毎週金曜―日曜。
問い合わせは同会<電054(247)3660>へ


静岡大空襲
静岡・清水地区は1944年暮れから終戦まで計26回の空襲を受け、2350人余りが死亡した。
最大の空襲は1945年6月20日。米軍爆撃機B29123機が午前1時前から約2時間、焼夷弾などを投下して旧静岡市街の大半を焼き払った。』

ここまで記事内容です。

静岡新聞 平成19年6月16日(土曜日) 朝刊 社会欄掲載


静岡平和資料センターのホームページはこちらです。
http://homepage2.nifty.com/shizuoka-heiwa/

なお、静岡大空襲の書籍の紹介はこちらです。
私設文庫館−太平洋戦争編−
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/ 
              
上記内の地方団体発行欄NO.90「静岡市空襲の記録」です。
http://web.thn.jp/sisetu-bunkokan/tihou90.html

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